以下は、日本野蚕学会の英文誌、International Journal of Wild Silkmoth & Silk Vol. 7, 1-10 (2002) の赤井 弘会長の記事に最新情報を追加したものです。(4)と(6)を追加しました。野蚕、野蚕のマユ、野蚕の糸に関連した研究成果と技術開発の成果をご紹介します。
1964年までに、福田と樋口によってテンサン、Antheraea yamamaiの人工飼料が作られ、幼虫の飼育が可能になっていた。しかし卵をつくらせたり、幼虫を育ててサナギにすることは出来なかった。人工飼料の組成は後に改良されて、飼育方式も改良された。その結果、満足できる結果が得られるようになった。
最近、清水と赤井(1992)によって、簡単に調製できる人工飼料がエリ蚕用に開発された。新鮮な飼料樹の葉を用いてペースト状の人工飼料を作成する方法である。これによって調製コストを大幅に下げることが出来た。これら人工飼料は、野蚕の若令幼虫に与えると、野蚕の病気でウイルスに起因するものとか、細菌に起因するものを防止することに役立つ。また、マユの収量を増加させることにも役立つ。通常の飼育方法に比べて2倍の収量をあげることが出来る。
家蚕の休眠卵を塩酸処理によって人工孵化させる方法が実用化されたのは、1914年の小池によるものが最初である。後に荒木 によって1917年に完全な技術として確立された。これら方法は、しかし、他の野蚕の休眠卵の休眠打破にたいして有効な方法では なかった。それ以後、野蚕の休眠卵の休眠打破の方法についてそれ以上の進展は見られなかった。
最近、昆虫内分泌学者は、以下のようなことを実験的に明らかにした。つまり、抗幼若ホルモンを幼虫に投与すると、体液中のエ クダイソンと幼若ホルモンの濃度上昇を阻止出来るという事実である。また、家蚕の幼虫脱皮や絹タンパク質生産は、抗幼若ホルモン 処理によって調節できるという事実である。鈴木らは1990年に以下の事実を見つけた。つまり抗幼若ホルモンは、テンサンの休眠 を打破すること、この処理による孵化率は90%以上であることである。以上の発見は発生生物学上からも、野蚕の実用面、とりわけ 野蚕製品の商業利用に及ぼす影響の点から、大変有意義な発見である。
マユが入手できたあと考慮すべきことで最も大切なことは、マユを形作る繊維の構造特性と繊維の太さである。その理由は、マユ の繊維の構造特性と繊維の太さが、最終生産物である絹織物の特性に重要な影響を及ぼすからである。
赤井らは1989年に、テンサンがつくったマユの繊維中と、テンサンの絹糸腺の内腔の液状絹の中に小さな空洞があるという報 告をした。それ以来、マユの繊維の構造特性が純学問的な興味からと、マユができたあとの繊維を扱う技術の両面から注目されるよう になった。赤井らは5つの科に属する絹糸昆虫のうちから15種類の種を選んで採集して得たマユの繊維の横断面を調査し比較した。 その結果、ヤママユガ科に属する昆虫のマユの繊維中にはすべて小さな穴があいていること、それ以外の科の昆虫のマユの繊維は緻密 な構造をしており、繊維中には穴があいていないことを明らかにした。
マユの繊維から商品を製造する観点からみれば、明らかに穴のあいた繊維の方が繊維製品を生産するのに適している。そうして作 られた製品は湿り気を適度に保持し、保温性も良いことから柔軟性に富んでいる。以上の発見は、絹織物製品を生産する上できわめて 重要な発見である。
1993年角田らにより、家蚕のサナギ1日令の絹糸腺中から、また4令幼虫眠期の絹糸腺中から、フィブロイン分解酵素(フィ ブロイナーゼ)が発見された。後にフィブロイナーゼは絹糸腺の内腔にあるフィブロインに加えてセリシンも分解することが示され た。同じく角田らによって、エリ蚕の絹糸腺中からもフィブロイナーゼが精製標品として回収された。家蚕ならびにエリ蚕のフィブロイナーゼはいずれもカテプシンL様のシステインプロテアーゼであり、酸性のpH 4.0付近に至適pHを持つ。
エリ蚕のフィブロイナーゼの特徴の一つは、吐糸終了時に、絹糸腺一対あたりの絶対活性が、家蚕の絹糸腺フィブロイナーゼの最大活性の38倍にもなることである。エリ蚕の吐糸期の絹糸腺は、酵素製剤調製のためのフィブロイナーゼの酵素源として有望である。
(3)のマユ繊維中の小さな穴は野蚕の後部絹糸腺細胞から絹糸腺の内腔へ、リソソームが分泌された結果つくられることが赤井らによって明らかにされた。このリソソーム中に、フィブロイナーゼは局在している。家蚕でもエリ蚕でも眠期に、リソソームから フィブロイナーゼが絹糸腺内腔に分泌される。その仕組みは完全には明らかにされていない。
カイコならびに野蚕の成虫の口の両側にある小腮(しょうさい)と呼ばれる器官から分泌されるマユ溶解酵素が、有名なコクナーゼである。これはセリンプロテアーゼであり、弱アルカリ性のpH 8.0付近に至適pHを持つ。コクナーゼはセリシンのみを分解し、フィブロインは分解しない。
絹の酵素精錬にはアルカラーゼというアルカリ性で働くセリンプロテアーゼが通常利用されている。これはコクナーゼからヒントを得たと思われる。一方、フィブロイナーゼは酸性でフィブロインに加えてセリシンも分解をする。したがって、フィブロイナーゼを利用した絹精錬が可能である。フィブロイナーゼの利用は、アルカラーゼ処理とは異なる風合いを持つ絹織物製品を生産出来る可能性がある。
野蚕の遺伝子を取り扱う技術に関していくつか興味深い研究報告がある。サクサンの核多角体病ウイルスの多角体遺伝子の構造を解析した結果、外来タンパク質を発現することが出来る発現ベクターを作ることが出来た。また、昆虫のバキュロウイルスで、Autographa californica の核多角体病ウイルスと家蚕の核多角体病ウイルスの両方のウイルスをタンパク質の発現ベクターとして利用する実験系が構築されて、実際外来遺伝子を発現させることが出来 た。この研究分野は基礎研究においても応用研究においても急速に拡大しており、野蚕のみならずすべての昆虫種の生物学的研究分野において進展が期待される。
2006年に赤井らは家蚕のフィブロイン遺伝子をNd-s蚕に導入して形質転換蚕を作成し、形質転換蚕の後部絹糸腺と後部絹 糸腺の内腔のフィブロインの形態を観察した。Nd-s蚕は異常に小さな後部絹糸腺をもち、セリシンのみを吐糸する家蚕である。実 験の結果、フィブロイン遺伝子をNd-s蚕に導入すると明らかにフィブロインの分泌と、後部絹糸腺におけるフィブロインの生合成 の機能回復が認められた。
今回は、あざやかな緑色をしたマユをつくるテンサンのフィブロイン遺伝子を、正常に機能する絹糸腺を有する家蚕にPiggyBac トランスポゾンを用いて導入し、後部絹糸腺の細胞活性とフィブロインの形態観察を行った。その結果、得られた組換え蚕のマユの層 は不均一で、フィブロイン量は対照のものに比べて約11%の分泌量しか示さなかった。また組換え蚕の絹糸腺は後部絹糸腺の発達が 著しく劣り、後部絹糸腺細胞の基底膜と接する細胞膜の陥入も不明瞭となっていた。さらには粗面小胞体、ゴルジ装置そしてフィブロ イン小球も対照のものに比べて発達も数も少なかった。従って、本手法により作成された遺伝子組み換え蚕は後部絹糸腺のタンパク質 合成活性が低下していることが明らかとなった。
先回と今回の結果を今後、詳細に比較検討して、研究を継続することによって、フィブロイン遺伝子の発現調節機構をさらに追求 するための糸口を得ることが出来ると考えられる。絹糸昆虫のフィブロイン遺伝子とセリシン遺伝子の発現調節機構ならびに絹糸腺の 発達機構を解明するためのまたとない研究材料と研究の場を野蚕は提供してくれる。
サクサンのフィブロインをリン酸によって加水分解し、水に可溶性のペプチド粉末を製造することが出来た。製造コストは従来の 方法よりも低く押さえることが出来た。同時期にエリ蚕のシルク粉末が同様の方法で作られた。種々の野蚕のマユのシルク粉末の製造 法が現在研究されつつある。化学的製造法ではなくて、物理的製造法が研究されている。その理由は、種々の産業分野から野蚕のシル ク粉末の需要が急増しているからである。
野蚕のなかにはさまざまな色のマユや繊維をつくるものがある。たとえばテンサンやRhodinia fugax は緑色の繭をつくる。エリ蚕は赤褐色のマユをつくる。ムガサンはいわゆる黄金色をした生糸をつくる。クリキュラは黄金色のマユを つくる。これらのマユの天然色素は現在生化学的な手法によって研究が進められている。
天然色素をもつマユや繊維を利用すればどこにもない、高付加価値の絹織物を生産することができる。例えばテンサンシルクやム ガシルクなどがある。クリキュラの黄金色をしたマユはおそらくどこにもないという意味では最たる例である。ジョクジャカルタで は、クリキュラは柑橘類と街路樹に対して有害な、唯一の害虫である。以前にはクリキュラを利用するという考え方は全くなかった。 現在ではクリキュラのマユを利用したシルク産業が生まれて成長を続けている。
アナフェは老熟幼虫になると協同作業をして巨大なシルクで出来た巣をつくる。巣の構造をみると、共有するシルクの殻の中にお びただしい数の個別のマユが入っている。巣からは、特殊な刺激性の蒸気が分泌されていて、これにさらされたヒトの手はかゆくな る。この巣を精錬処理すると、刺激はなくなる。つまり、刺激物質はマユを形作る繊維の中でセリシンに含まれていることがわかる。 アナフェの一本のシルク繊維の横断面を見てみると、極端に扁平な形をしている。また緻密な構造をしていて、繊維中に小さな穴は認 められない。最近、新規のアナフェのマユの精錬方法が開発された。
最近、チアミナーゼが相当量、アナフェの幼虫、サナギ、成虫で検出されることが世界で最初に報告された。今日までのところ、 すべての昆虫種のなかで、この報告が昆虫のチアミナーゼに関する唯一の報告である。
マユの殻とマユの巣は成虫の蛾を劣悪な環境から保護する役割があると思われる。たとえば、高温や低温や、極端な湿気、それに 天敵からの保護である。したがってマユ自体が環境要因に対する防護機能を持つ必要がある。
UV効果を調査したところ、以下の結論を得た。つまり、野蚕製品はUV吸収やUV散乱の点で、きわめて優秀な成績を示すこ と、またUV照射を減少させる点についても優秀な成績を示す。ほかにも簡単な実験によってある種のシルク製品の抗カビ活性が日本 の餅を使って調査された。餅は餅米だけから作ったもので他の添加物を含んでいないものである。実験の結果、野蚕シルク製品は明ら かにカビの増殖を抑制する効果を示すことがわかった。
野蚕のシルク粉末の栄養価の研究によれば、以下の示唆が得られている。つまり野蚕のシルク粉末は新規の機能性を有している。 血液中のコレステロールの濃度を調節したり、大腸がんになりにくくしたり、抗酸化能を有するなどである。
以上の成果は国際野蚕学会が1988年に設立されて以来、長年にわたって蓄積された興味深い発見の数々のほんの一部である。 現在、国際野蚕学会は、野蚕と野蚕のシルクに関して解決しなければならない多くの基礎研究ならびに応用研究の課題を抱えている。 また近い将来発展すると思われる研究課題を抱えている。野蚕の研究は、こういった意味では十分に進展したとはいえない。多くの未解決の課題を抱えているのが実情である。国際野蚕学会は今後も、これら課題の解明に挑戦し、新知見を明らかにするとともに新技術の開発を目指す。